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第93章

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    第93章 (第3/3页)

で出てきたりはしないわよ」

    家に帰るとレイコさんは米を洗って炊き、僕はゴム?ホースをひっぱって縁側ですき焼を食べる準備をした。準備が終わるとレイコさんハギター?ケースから自分のギターをとりだし、もう薄暗くなった縁側に座って、楽器の具合をたしかめるようにゆっくりとバッハのフーガを弾いた。細かいところをわざとゆっくりと弾いたり、速く弾いたり、ぶっきら棒に弾いたり、センチメンタルに弾いたりして、そんないろんな音にいかにも愛しそうに耳を澄ませていた。ギターを弾いているときのレイコさんは、まるで気に入ったドレスを眺めている十七か十八の女の子みたいに見えた。目がきらきらとして、口もとがきゅっとひきしまったり、微かなほほえみの影をふと浮かべたりした。曲を弾き終えると、彼女は柱にもたれて空を眺め、何か考えごとをしていた。

    「話しかけていいですか?」と僕は訊いた。

    「いいわよ。おなかすいたなあって思ってただけだから」とレイコさんは言った。

    「レイコさんは御主人や娘さんに会いに行かないんですか?東京にいるでしょう?」

    「横浜。でも行かないわよ、前にも言ったでしょ?あの人たち、もう私とは関りあわない方がいいのよ。あの人たちにはあの人たちの新しい生活があるし、私は会えば会っったで辛くなるし。会わないのがいちばんよ」

    彼女は空になったセブンスターの箱を丸めて捨て、鞄の中から新しい箱をとりだし、封を切って一本くわえた。しかし火はつけなかった。

    「私はもう終わってしまった人間なのよ。あなたの目の前にいるのはかつての私自身の残存記憶にすぎないのよ。私自身の中にあったいちばん大事なものはもうとっくの昔に死んでしまっていて、私はただその記憶に従って行動しているにすぎないのよ」

    「でも僕は今のレイコさんがとても好きですよ。残存記憶であろうが何であろうがね。そしてこんなことどうでもいいことかもしれないけれど、レイコさんが直子の服を着てくれていることは僕としてはとても嬉しいですね」

    レイコさんはにっこり笑って、ライターで煙草に火をつけた。「あなた年のわりに女の人の喜ばせ方よく知っているのね」

    僕は少し赤くなった。「僕はただ思っていること正直に言ってるだけですよ」

    「わかってるわよ」とレイコさんは笑って言った。

    そのうちにごはんが炊きあがったので、僕は鍋に油をしいてすき焼の用意を始めた。

    「これ、夢じゃないわよね?」とレイコさんはくんくんと匂いをかぎながら言った。
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