第39章 (第3/3页)
「私若いころね、プロのピアニストになるつもりだったのよ。才能だってまずまずあったし、まわりもそれを認めてくれたしね。けっこうちやほやされて育ったのよ。コンクールで優勝したこともあるし、音大ではずっとトップの成績だったし、卒業したらドイツに留学するっていう話もだいたい決っていたしね、まあ一点の曇りもない青春だったわね。何をやってもうまく行くし、うまく行かなきゃまわりがうまく行くように手をまわしてくれるしね。でも変なことが起ってある日全部が狂っちゃったのよ。あれは音大の四年のときね。わりに大事なコンクールがあって、私ずっとそのための練習してたんだけど、突然左の小指が動かなくなっちゃったの。どうして動かないのかわからないんだけど、とにかく全然動かないのよ。マッサージしたり、お湯につけたり、ニ、三日練習休んだりしたんだけど、それでも全然駄目なのよ。私真っ青になって病院に行ったの。それでずいぶんいろんな検査したんだけれど、医者にもよくわからないのよ。指には何の異常もないし、神経もちゃんとしているし、動かないわけがないっていうのね。だから精神的なものじゃないかって。精神科に行ってみたわよ、私。でもそこでもやはりはっきりしたことはわからなかったの。コンクール前のストレスでそうなったじゃないかっていうことくらいしかね。だからとにかく当分ピアノを離れて暮らしなさいって言われたの」
レイコさんは煙草の煙を深く吸いこんで吐き出した。そして首を何回か曲げた。
「それで私、伊豆にいる祖母のところに行ってしばらく静養することにしたの。そのコンクールのことはあきらめて、ここはひとつのんびりしてやろう、二週間くらいピアノにさわらないで好きなことして遊んでやろうってね。でも駄目だったわ。何をしても頭の中にピアノのことしか浮かんでこないのよ。それ以外のことが何ひとつ思い浮かばないのよ。一生このまま小指が動かないんじゃないだろうか?もしそうなったらこれからいったいどうやって生きていけばいいんだろう?そんなことばかりぐるぐる同じこと考えてるのね。だって仕方ないわよ、それまでの人生でピアノが私の全てだったんだもの。私はね四つのときからピアノを始めて、そのことだけを考えて生きてきたのよ。それ以外のことなんか殆んど何ひとつ考えなかったわ。指に怪我しちゃいけないっていうんで家事ひとつしたことないし、ピアノが上手いっていうことだけでまわりが気をつかってくれるしね、そんな風にして育ってきた女の子からピアノをとってごらんなさいよ、いったい何が残る?それでボンッ!よ。頭のねじがどこかに吹き飛んじゃったのよ。頭がもつれて、真っ暗になっちゃって」
彼女は煙草を地面に捨てて踏んで消し、それからまた何度か首を曲げた。