第50章 (第3/3页)
彼女はテニス?コートの手前を左に折れ、狭い階段を下り、小さな倉庫が長屋のような格好でいくつか並んでいるところに出た。そしてそのいちばん手前の小屋の扉を開け、中に入って電灯のスイッチを入れた。「入りなさいよ。何もないところだけれど」
倉庫の中にはクロス?カントリー用のスキー板とストックと靴がきちんと揃えられて並び、床には雪かきの道具や除雪用の薬品などが積み上げられていた。
「昔はよくここにきてギターの練習したわ。一人になりたいときにはね。こぢんまりしていいところでしょう?」
レイコさんは薬品の袋の上に腰をおろし、僕にも隣りに座れと言った。僕は言われたとおりにした。
「少し煙がこもるけど、煙草吸っていいかしらね?」
「いいですよ、どうぞ」と僕は言った。
「やめられないのよね、これだけは」とレイコさんは顔をしかめながら言った。そしておいしそうに煙草を吸った。これくらおいしいそうに煙草を吸う人はちょっといない。僕は一粒一粒丁寧に葡萄を食べ、皮と種をゴミ箱がわりに使われているブリキ缶に捨てた。
「昨日はどこまで話したっけ?」とレイコさんは言った。
「嵐の夜に岩つばめの巣をとりに険しい崖をのぼっていくところまでですね」と僕は言った。
「あなたって真剣な顔して冗談言うからおかしいわねえ」とレイコさんはあきれたように言った。「毎週土曜日の朝にその女の子にピアノを教えたっていうところまでだったわよね、たしか」
「そうです」
「世の中の人を他人に物を教えるのが得意と不得意な人にわけるとしたら私はたぶん前の方に入ると思うの」とレイコさんは言った。「若い頃はそう思わなかったけれど。まあそう思いたくないというのもあったんでしょうね、ある程度の年になって自分に見きわめみたいなのがついてから、そう思うようになったの。自分は他人に物を教えるのが上手いんだってね。私、本当に上手いのよ」
「そう思います」と僕は同意した。
「私は自分自身に対してよりは他人に対する方がずっと我慢づよいし、自分自身に対するよりは他人に対する方が物事の良い面を引きだしやすいの。私はそういうタイプの人間なのよ。マッチ箱のわきについているザラザラしたやつみたいな存在なのよ、要するに。でもいいのよ、それでべつに。そういうの私とくに嫌なわけじゃないもの。私、二流のマッチ棒よりは一流のマッチ箱の方が好きよ。はっきりとそう思うようになったのは、そうね、その女の子を教えるようになってからね。