第60章 (第3/3页)
になって病院をすっぽりと覆って、看護婦がコツコツと乾いた靴音を立ててその中を歩きまわっていた。
緑の父親は二人部屋の手前のベットに寝ていた、彼の寝ている姿は深手を負った小動物を思わせた。横向きにぐったりと寝そべり、点滴の針のささった左腕だらんとのばしたまま身動きひとつしなかった。やせた小柄な男だったが、これからもっとやせてもと小さくなりそうだという印象を見るものに与えていた。頭には白い包帯がまきつけられ、青白い腕には注射だか点滴の針だかのあとが点々とついていた。彼は半分だけ開けた目で空間の一点をぼんやりと見ていたが、僕が入っていくとその赤く充血した目を少しだけ動かして我々の姿を見た。そして十秒ほど見てからまた空間の一点にその弱々しい視線を戻した。
その目を見ると、この男はもうすぐ死ぬのだということが理解できた。彼の体には生命力というものが殆んど見うけられなかった。そこにあるものはひとつの生命の弱々しい微かな痕跡だった。それは家具やら建具やらを全部運び出されて解体されるのを待っているだけの古びた家屋のようなものだった。乾いた唇のまわりにはまるで雑草のようにまばらに不精髭がはえていた。これほど生命力を失った男にもきちんと髭だけははえてくるんだなと僕は思った。
緑は窓側のベットに寝ている肉づきの良い中年の男に「こんにちは」と声をかけた。相手はうまくしゃべれないらしくにっこりと肯いただけだった。彼は二、三度咳をしてから枕もとに置いてあった水を飲み、それからもそもそと体を動かして横向けになって窓の外に目をやった。窓の外には電柱と電線が見えた。その他には何にも見えなかった。空には雲の姿すらなかった。
「どう、お父さん、元気?」と緑が父親の耳の穴に向けってしゃべりかけた。まるでマイクロフォンのテストをしているようなしゃべり方だった。「どう、今日は?」
父親はもそもそと唇を動かした。<よくない>と彼は言った。しゃべるというのではなく、喉の奥にある乾いた空気をとりあえず言葉に出してみたといった風だった。<あたま>と彼は言った。
「頭が痛いの?」と緑が訊いた。
<そう>と父親が言った。四音節以上の言葉はうまくしゃべれないらしかった。
「まあ仕方ないわね。手術の直後だからそりゃ痛むわよ。可哀そうだけど、もう少し我慢しなさい」と緑は言った。「この人ワタナベ君。私のお友だち」
はじめまして、と僕は言った。父親は半分唇を開き、そして閉じた。
「そこに座っててよ」と緑はベットの足もとにある丸いビニールの椅子を指した。