第86章 (第3/3页)
お私をとるときは私だけをとってね。そして私を抱くときは私のことだけを考えてね。私の言ってる意味わかる?」
「よくわかる」
「それから私に何してもかまわないけれど、傷つけることだけはやめてね。私これまでの人生で十分傷ついてきたし、これ以上傷つきたくないの。幸せになりたいのよ」
僕は彼女の体を抱き寄せて口づけした。
「そんな下らない傘なんか持ってないで両手でもっとしっかり抱いてよ」と緑は言った。
「傘ささないとずぶ濡れになっちゃうよ」
「いいわよ、そんなの、どうでも。今は何も考えずに抱きしめてほしいのよ。私二ヶ月間これ我慢してたのよ」
僕は傘を足もとに置き、雨の中でしっかりと緑を抱きしめた。高速道路を行く車の鈍いタイヤ音だけがまるでもやのように我々のまわりを取り囲んでいた。雨は音もなく執拗に降りつづき、僕の黄色いナイロンのウィンド?ブレーカーを暗い色に染めた。
「そろそろ屋根のあるところに行かない?」と僕は言った。
「うちにいらしゃいよ。今誰もいないから。このままじゃ風邪引いちゃうもの」
「まったく」
「ねえ、私たちなんだか川を泳いで渡ってきたみたいよ」と緑が笑いながら言った。「ああ気持良かった」
僕らはタオル売り場で大きめのタオルを買い、かわりばんこに洗面所に入って髪を乾かした。それから地下鉄を乗りついで彼女の茗荷谷のアパートまで行った。緑はすぐに僕にシャワーを浴びさせ、それから自分も浴びた。そして僕の服が乾くまでバスローブを貸してくれ、自分はポロシャツとスカートに着がえた。我々は台所のテーブルでコーヒーを飲んだ。
「あなたのこと話してよ」と緑は言った。
「僕のどんなこと?」
「そうねえ……どんなものが嫌い?」
「鳥肉と性病としゃべりすぎ床屋が嫌いだ」
「他には?」
「四月の孤独な夜とレースのついた電話機のカバーが嫌いだ」
「他には?」
僕は首を振った。「他にはとくに思いつかないね」
「私の彼は――つまり前の彼は――いろんなものが嫌いだったわ。私がすごく短いスカートはくこととか、煙草を吸うこととか、すぐ酔払うこととか、いやらしいこと言うこととか、彼の友だちの悪口言うこととか……だからもしそういう私に関することで嫌なことあったら遠慮しないで言ってね。