第14章 (第2/3页)
もいて、とっても時間がかかった。でも、海を後ろにして、思い思いのポーズをして撮った写真は、子供達も宝物になった。その写真を見れば、船のことも、温泉のことも、オバケの話しのことも、「オットットットット!」の子の事も,一度に思い出せるからだった。こうして、トットちゃんの初めての夏休みは、絶対に忘れることの出来ない、いろんな楽しい思い出を残して過ぎていった。まだ東京でも、近くに池には、ザリガニがたくさんいて、大きい牛が、ゴミ屋さんの車を引っ張って歩いている頃の、ことだった。
夏休みも終わり、二学期が始まった。夏休みの間、いろんな集まりのたびに、トットちゃんは、クラスのみんなとは勿論、上級生の一人一人とも親しくなった。そして、トモエ学園のことが、もっともっと好きになっていた。 トモエは、普通の小学校と授業方法が変わっている他に、音楽の時間が、とても多かった。音楽の勉強にも、いろいろあったけど、中でも「リトミック」の時間は、毎日あった。リトミックというのは、ダルクローズという人が考えた、特別のリズム教育で、この研究が発表されると、1905年(明治三十八年)頃のとこなんだけど、全ヨーロッパ、アメリカなどが、いち早く注目して、各国に、その養成所とか、研究所とか、できたくらいだった。で、どうして、このトモエにダルクローズ先生のリトミックが入って来たのか、といえば、こういう、いきさつだった。 校長の小林宗作先生は、トモエ学園を始める前に、外国では、子供の教育を、どんな風にやっているかを見るために、ヨーロッパに出発した。そして、いろんな小学校を見学したり、教育者といわれる人達を聞いたりしていた。そんな時、パリで、小林先生は、素晴らしい作曲者でもあり、教育者でもあるダルクローズ、という人に出逢い、このダルクローズが、長い間、 「どうしたら、音楽を耳でなく、“心で聞き、感じる”ということを子供に教えられるだろうか。生気のない教育ではなく、動きのある生きている音楽を感じ取ってもらうには……。どうしたら子供の感覚を目覚めさせられるだろうか?」 ということを考えていて、遂に、子供達の、自由に飛び跳ねるのを見ていて発見し、創作したリズム体操、「リトミック」というものがあることを知った。そこで、小林先生は、パリのこのダルクローズ学校に一年いようも滞在して、リトミックを身につけた。少し歴史的な話になるけれど、日本人で、このダルローズの影響を受けた人は多く、山田耕作を始め、モダンダンスの創始者石井漠、歌舞伎の二代目市川左団次、新劇運動の先駆者小山内薫、舞踊家伊藤道郎。こう言った人達も、リトミックが、あらゆる芸術の基礎である、ということで、ダルクローズに学んだ。でも、このリトミックを、小学校の教育に取り入れてみようとしたのは、小林先生が初めてだっ
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