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第15章 (第1/3页)
初めは、手も足も、目茶苦茶だったり、口々に。 「先生、待ってよ、待ってよ」 といいながら、ウンウンやったけど、馴れてくると、とても気持ちがよく、自分でも、いろんなことを考え出してやれることもあって、楽しみだった。たいがいは、流れの中で一人でやるんだけど、気が向いたときは、誰かと並んでやったり、二拍子のときだけ、片手をつないだままやったり、目をつぶってやってみたり。ただ、しゃべることは、いけないとされていた。 ママ達も、たまに父兄会のときなんかに、そーっと外から見ることもあったけど、子供達がそれぞれ、その子らしい表情で、のびのびと手足を動かし、いかにも気持ちよさそうに、飛び跳ねて、しかも、リズムに、きっちり、あっている、という光景は、いいものだった。 リトミックは、こんな風に、体と心にリズムを理解させることから始まり、これが、精神と肉体との調和を助け、やがては、想像力を醒まし、創造力を発達させるようになればいい、という考えのものだった。だから、初めての日、トットちゃんが、学校の門のところで、ママに、 「トモエって、なあに?」と聞こうとしたけど、この学校の「トモエ」、というのは、白と黒から出来ている紋所の一種の二つ巴で子供達の身心両面の発達と調和を願う、校長先生の心の現われだった。 リトミックの種類は、まだたくさんあったけど、とにかく、校長先生は、子供達の、生まれつき持ってる素質を、どう、周りの大人たちが、損なわないで、大きくしてやれるか、ということを、いつも考えていた。だから、このリトミックにしても、 「文字と言葉に頼り過ぎた現代の教育は、子供達に、自然を心で見て、神の囁きを聞き、霊感に触れるというような、官能を衰退させたのではなかろうか? 古池や 蛙とびこむ 水の音……池の中に蛙がとびこむ現象を見た者は、芭蕉のみでは、なかったろうに、湯気たぎる鉄瓶を見た者、林檎の落ちるのを見た者は、古今東西に於いて、ワット一人、ニュートン一人というわけで、あるまいに。世に恐るべきものは、目あれど美を知らず、耳あれども楽を聴かず、心あれども真を解せず、感激せざれば、燃えもせず……の類である」などと嘆いていた校長先生が、きっと、いい結果を生むに違いないと授業に入れたものだった。そして、トットちゃんは、イサドラ?ダンカン風に、はだしで走りまわり、とびまわって、それが、授業だなんて、すごく嬉しいと思っていた。
トットちゃんは生まれて初めて、縁日に行った。縁日は、前に行ってた学校のそばにある洗足池の、弁天様がある小さい島でやっていた。パパとママに連れられて薄暗い道を歩いて行って、急に明るくなったと思ったら、それが縁日で、いろんな電気がついているのだった。一目見ただけで、もう興奮したトットちゃんは、小さな夜店のひとつひとつに頭を突っ込んだ。あっちでもこっちでも、ピーとかポンとかシュルシュルという音
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