第24章 (第3/3页)
サドラ?ダンカンという、素晴らしいダンスをするアメリカの女の人の話を、前から、よく聞いていた。ダンカンも、小林先生と同じように、ダルクローズの影響をうけていた。尊敬する小林先生が好きだというダンカンを、トットちゃんは当然、認めていたし、(見たことがなくても)親しく感じていた。だから、トットちゃんにとって、踊る人になる、という事は、そう特別のことでもないように思えた。折も折、ちょうど具合のいいことに、その頃、トモエには、小林先生の友達で、リトミックを教えに来ている先生がいて、学校のすぐそばに、ダンスのスタジオを持っている、ということだった。ママは、その先生にお願いして、放課後、そのスタジオでレッスンを受けるように、取りはからってくれた。ママは、「何々をしなさい」とかは、決していわなかったけど、トットちゃんが、「何々をしたい」というと、「いいわよ」といって、別に、いろいろ聞かずに、子供では出来ない手続きといった事を、かわりにやってくれるのだった。トットちゃんは、一日も早く、白鳥の湖を踊る人になろうと、ワクワクして、そのスタジオに通った。ところが、その先生の教え方は、かわっていた。トモエでやるリトミックの他に、ピアノやレコードの音楽にあわせて、「お山は晴天」とかいって、ぶらぶら歩いていて、突然先生が、「ポーズ!」というと、生徒は、いろんな形を自分で作って、その形で、静止をするのだった。先生も、ポーズのときは、生徒と一緒に、「アハ!」というような声を出して、「天を仰ぐ恰好」とか、ときには、「苦しんでいる人」のように両手で頭を抱えて、うずくまったりした。ところが、トットちゃんのイメージにあるのは、キラキラ光る冠と、白いフワフワした衣裳を着た白鳥であって、「お山は晴天」でも、「アハ!」でもなかった。トットちゃんは、ある日、勇気を出すと、その先生のそばに行った。先生は男だけど、頭の毛の前髪を、おかっぱのように切っていて、毛も少し、縮れていた。トットちゃんは、両手を大きく広げ、白鳥のように、ひらひらさせながらいった。「こういうの、やんないの?」鼻が高く、目が大きく、立派な顔の、その先生は言った。「僕の家じゃ、そういうの、やんないの」 ……それ以来、トットちゃんは、この先生のスタジオに、だんだん行かなくなってしまった。確かに、バレーの靴も履かず、はだしで飛び回って、自分の考えたポーズをするのも、トットちゃんは好きだった。でも、キラキラ光る小さい冠を、どうしても、かぶりたかったんだもの。別れ際に先生はいった。「白鳥もいいけど、自分で創って踊るの、君、好きになって、くれないかなあ」この先生が、実は、石井漠という、日本の自由舞踊の創始者であり、この、小さい町に止まる東横線の駅に、「自由が丘」という名前をつけた人だ、などということを知ったのは、大人になってからのことだった。