第40章 (第3/3页)
旅行しただけ。でもすごく幸せだったわ、何もかもが。結局私、結婚するまで処女だったのよ、二十五歳まで。嘘みたいでしょう?」
レイコさんはため息をついて、またバスケット?ボールを持ちあげた。
「この人といる限り私は大丈夫って思ったわ」とレイコさんは言った。「この人と一緒にいる限り私が悪くなることはもうないだろうってね。ねえ、私たちの病気にとっていちばん大事なのはこの信頼感なのよ。この人にまかせておけば大丈夫、少しでも私の具合がわるくなってきたら、つまりネジがゆるみはじめたら、この人はすぐに気づいて注意深く我慢づよくなおしてくれる――ネジをしめなおし、糸玉をほぐしてくれる――そういう信頼感があれば、私たちの病気はまず再発しないの、そういう信頼感が存在する限りまずあのボンッ!は起らないのよ。嬉しかったわ。人生ってなんて素晴らしいんだろうって思ったわ。まるで荒れた冷たい海から引き上げられて毛布にくるまれて温かいベッドに横たえられているようなそんな気分ね。結婚して二年後に子供が生まれて、それからはもう子供の世話で手いっぱいよ。おかげで自分の病気のことなんかすっかり忘れちゃったくらい。朝起きて家事して子供の世話して、彼が帰ってきたらごはん食べさせて……毎日毎日がそのくりかえし。でも幸せだったわ。私の人生の中でたぶんいちばん幸せだった時期よ。そういうのが何年つづいたかしら?三十一の歳まではつづいたわよね。そしてまたボンッ!よ。破裂したの」
レイコさんは煙草に火をつけた。もう風はやんでいた、煙はまっすぐ上に立ちのぼって夜の闇の中に消えていった。気がつくと空には無数の星が光っていた。
「何かがあったんですか?」と僕は訊いた。
「そうねえ」とレイコさんは言った。「すごく奇妙なことがあったのよ。まるで何かの罠か落とし穴みたいにそれが私をじっとそこで待っていたのよ。私ね、そのこと考えると今でも寒気がするの」彼女は煙草を持っていない方の手でこめかみをこすった。「でもわるいわね、私の話ばかり聞かせちゃって。あなたせっかく直子に会いにきたのに」
「本当に聞きたいんです」と僕は言った。「もしよければその話を聞かせてくれませんか?」
「子供が幼稚園に入って、私はまた少しずつピアノを弾くようになったの」とレイコさんは話しはじめた。「誰のためでもなく、自分のためにピアノを弾くようになったの。バッハとかモーツァルトとかスカルラッティーとか、そういう人たちの小さな曲から始めたのよ。もちろんずいぶん長いブランクがあるからなかなか勘は戻らないわよ。指だって昔に比べたら全然思うように動かないしね。