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第42章 (第1/3页)
もちろんそれほど上手くないわよ。専門的な学校に入ってやっているわけでもないし、レッスンだって通ったり通わなかったりしでずいぶん我流でやってきたわけだから。きちっと訓練された音じゃないのよ。もし音楽学校の入試の実技でこんな演奏したら一発でアウトね。でもね、聴かせるのよ、それが。つまりね全体の九〇パーセントはひどいんだけれど、残りの一〇パーセントの聴かせどころをちやんと唄って聴かせるのよ。それもバッハのインベンションでよ!私それでその子にとても興味を持ったの。この子はいったい何なんだろうってね。
そりゃね、世に中にはもっともっと上手くバッハを弾く若い子はいっぱいいるわよ。その子の二十倍くらい上手く弾く子だっているでしょうね。でもそういう演奏ってだいたい中身がないのよ。かすかすの空っぽなのよ。でもその子のはね、下手だけれど人を、少なくとも私を、ひきつけるものを少し持ってるのよ。それで私、思ったの。この子なら教えてみる価値はあるかもしれないって。もちろん今から訓練しなおしてプロにするのは無理よ。でもそのときの私のように――今でもそうだけれど――楽しんで自分のためにピアノを演奏することのできる幸せなピアノ弾きにすることは可能かもしれないってね。でもそんなのは結局空しい望みだったのよ。彼女は他人を感心させるためにあらゆる手段をつかって細かい計算をしてやっていく子供だったのよ。どうすれば他人が感心するか、賞めてくれるかっていうのはちゃんとわかっていたのよ。どういうタイプの演奏をすれば私をひきつけられるかということもね。全部きちんと計算されていたのよ。そしてその聴かせるところだけをとにかく一所懸命何度も何度も練習したんでしょうね。目に浮ぶわよ。
でもそれでもね、そういうのがわかってしまった今でもね、やはりそれは素敵な演奏だったと思うし、今もう一回あれを聴かされたとしても、私やっぱりどきっとすると思うわね。彼女のずるさと嘘と欠点を全部さっぴいてもよ。ねえ、世の中にはそういうことってあるのよ」
レイコさんは乾いた声で咳払いしてから、話をやめてしばらく黙っていた。
「それでその子を生徒にとったんですか?」と僕は訊いてみた。
「そうよ。週に一回。土曜日の午前中。その子の学校は土曜日もお休みだったから。一度も休まなかったし、遅刻もしなかったし、理想的な生徒だったわ。練習もちょんとやってくるし。レッスンが終ると、私たちケーキを食べてお話したの」レイコさんはそこでふと気がついたように腕時計を見た。「ねえ、私たちそろそろ部屋に戻った方がいいんじゃないかしら。直子のことがちょっと心配になってきたから。あなたまさか直子のことを忘れちゃったんじゃないでしょうね?
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