第82章 (第3/3页)
僕は言った。「お姉さんは毎日何をしてるの?」
「彼女のお友だちが最近表参道の近くでアクセサリーのお店始めたんで、週に三回くらいその手伝いに行ってるの。あとは料理を習ったり、婚約者とデートしたり、映画を見に行ったり、ぼおっとしたり、とにかく人生を楽しんでいるわね」
彼女が僕の新しい生活のことを訊ね、僕は家の間取りやら広い庭やら猫のかもめやら家主のことやらを話した。
「楽しい?」
「悪くないね」と僕は言った。
「でもそのわりに元気がないのね」
「春なのにね」と僕は言った。
「そして彼女が編んでくれた素敵なセーター着てるのにね」
僕はびっくりして自分の着ている葡萄色のセーターに目をやった。「どうしてそんなことはわかったのかな?」
「あなたって正直ねえ。そんなのあてずっぽうにきまってるじゃない」と緑はあきれたように言った。「でも元気がないのね」
「元気を出そうとしているんだけれど」
「人生はビスケットの缶だと思えばいいのよ」
僕は何度か頭を振ってから緑の顔を見た。「たぶん僕の頭がわるいせいだと思うけれど、ときどき君が何を言ってるのかよく理解できないことがある」
「ビスケットの缶にいろんなビスケットがつまってて、好きなのとあまり好きじゃないのがあるでしょ?それで先に好きなのどんどん食べちゃうと、あまり好きじゃないのばっかり残るわよね。私、辛いことがあるといつもそう思うのよ。今これをやっとくとあとになって楽になるって。人生はビスケットの缶なんだって」
「まあひとつの哲学ではあるな」
「でもそれ本当よ。私、経験的にそれを学んだもの」と緑は言った。
コーヒーを飲んでいると緑のクラスの友だちらしい女の子が二人店に入ってきて、緑と三人で課目登録カードを見せあい、昨日のドイツ語の成績がどうだったとか、なんとか君が内ゲバで怪我をしただとか、その靴いいわねどこで買ったのだとか、そういうとりとめのない話をしばらくしていた。聞くともなく聞いていると、そういう話はなんだか地球の裏側から聞こえてくるような感じがした。僕はコーヒーを飲みながら窓の外の風景を眺めていた。いつもの春の大学の風景だった。空はかすみ、桜が咲き、見るからに新入生という格好をした人々が新しい本を抱えて道を歩いていた。そんなものを眺めているうちに僕はまた少しぼんやりとした気分になってきた。